基通が6歳のとき父・基実は24歳で病没。継母(といっても11歳)の盛子が翌年
准三后を賜り
高倉天皇の
准母(白河殿)となると、盛子は基通を自らの
養子としてこれを後見した。本来であれば、
藤原忠通-基実-基通と
摂関家の嫡流が継承される筈であったが、父が没したときに7歳であった基通には摂関になる以前に官位そのものを有していなかったために、摂関の地位は基実の異母弟の
基房が中継ぎとして継承した。しかも、母方の伯父
藤原信頼は
平治の乱の首謀者として殺害されており、「謀反人の甥」という影が付きまとっていた。基通は台頭著しい
平家一門を事実上の
外戚とすることで
摂関家の継承者の地位を保つことが可能となっていた。
後白河法皇が盛子に摂関家領を継承させたのも将来の基通への継承を前提にしていたものと考えられている。また、当時基実の弟である
九条兼実も盛子を「仮の伝領の人」、基通を「宗たる文書・庄園、伝領せらるべき仁」と呼んで基通を摂関家の継承者とみなしていた(『
玉葉』治承3年6月18日条)。
1181年閏2月に清盛が薨去して平家が急速に衰退し、
1183年の
源義仲の攻勢の前に都落ちを余儀なくされたときは、これまでの縁の深さから平家と行動をともにするよう
平信基に迫られるが、最終的にこれを拒絶し都にとどまった。その後は後白河法皇の側近として仕え、
後鳥羽天皇の擁立にも貢献した。義仲と法皇の仲が険悪になって、義仲による
クーデターが実行されたときには全ての任を解かれたが、
1184年に義仲が討たれると、
摂政に復した。その後は後白河法皇随一の側近として信任を受けたが、かつて平家と親しかった経緯から叔父である
九条兼実をはじめとする
公卿から基通に対する非難が相次ぎ、
1186年3月には
源義経が兄・
源頼朝追討の
院宣を法皇に出させることを仲介した張本人と見なされて全ての任を解かれ、篭居されるに至った。その後、基通に代わって兼実が摂政となったが、法皇はなおも基通を庇護していたと言われている。