忠通と忠実・頼長は
近衛天皇の
後宮政策においても対立し、
久安6年(
1150年)正月に頼長が養女
藤原多子を入内させ、
皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女
藤原呈子を入内させて、
中宮に冊立させた。この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、忠通は同年父から
義絶されて弟頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗し、
久寿2年(
1155年)の後白河天皇の
践祚により復権。それら一連の対立が
保元の乱一つの原因となった。乱後、氏長者の地位は回復されたが、その際に前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、
宣旨によって任命が行われ、藤原氏による自律性を否認された。更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の
荘園及び個人の荘園が全て没官領として剥奪されることになったが、忠通が忠実に摂関家伝来のものと忠実個人の荘園を自分に譲与するように迫り、漸く忠通の所領として認められて没収を回避された。