民族浄化(みんぞくじょうか、
クロアチア語・
ボスニア語・
セルビア語: 、
英語:)は、複数の
民族集団が共存する地域において、ある民族集団を強制的にその地域から排除しようとする政策。直接的な
大量虐殺や強制移住のほか、各種の嫌がらせや見せしめ的な暴力、殺人、組織的
強姦、強制妊娠などによって地域内からの自発的な退去を促す行為も含まれる。また、直接的暴力を伴わない
同化政策も広義には民族浄化に含まれるという見方もある。
「民族浄化」は、
1990年代に
内戦中の旧
ユーゴスラビア地域のメディアに頻繁に使用された
クロアチア語、
ボスニア語および
セルビア語の「(エトニチュコ・シスチェーニェ)を翻訳したもので、ボスニア紛争を契機にして1992年頃から世界の主要メディアでも広く使用されるようになった。流通するようになったきっかけは、当時のボスニア政府とPR契約を結んでいた、アメリカの広告代理店「ルーダー・フィン社」が効果的なメディア対策をおこなったためである
。「ルーダー・フィン社」は当初、セルビア人による虐殺を非難するための言葉として「
ホロコースト」を使用したがこの言葉をナチスによるユダヤ人虐殺以外に使わせることをユダヤ人団体が認めようとせず不快感をあらわにしたので、これに代わる言葉を見つけ出す必要があった。ルーダー・フィン社は「エトゥチニコ・シチェーニェ」という言葉を、ボスニア紛争以前に契約していたクロアチア側がセルビア人を非難するために使っていたことを知り、
セルビア側を攻撃する際に徹底的に使用するようになった。英訳の際に「」と「」の2種類が用意され、当初はどちらも使われていたが、後者の方がより残酷な印象を与えるため、すぐに「」へ移行した。現在はもっぱら「」が用いられている。
その後
ヨシップ・ブロズ・ティトー政権の成立によりユーゴスラビアは多民族国家として再出発し、民族の協調がうたわれたため、バルカン地方を越えた一般的な言葉としては流通しなかった
。この時の民族浄化の記憶は、ボスニア紛争時にボスニア内の各民族に、再び他民族が自分たちを虐殺するのではないかという、少なからぬ恐怖感を与えたようである
。多民族国家であった
ユーゴスラビア連邦でも、
1980年代、
ヨシップ・ブロズ・ティトーの死後、民族主義的な感情の高まりにしたがって、自民族は「民族浄化」の犠牲者であるとする論調で、異民族に対する憎悪をあおる場面で頻繁に用いられるようになった
。各民族に対等の権利を保障するユーゴスラビアの制度によって、数の上では最大であるセルビア人の地位は相対的に低くなり、また歴史的にセルビア人が多く住んでいた地方の多くが
セルビア共和国の外に置かれた。また、コソボではセルビア人の流出による人口減少と、多産社会の
アルバニア人の人口増大によって人口比率は大きく変化していた。こうしたことに対する不満と、第二次世界大戦中にナチス、ファシスト政権と協力関係にあったクロアチア人、アルバニア人を結びつけ、「セルビア人は過去に民族浄化の被害者であった」、「いままたセルビア人に対する民族浄化が進められている」といった論調で異民族に対する憎悪を高めていた。