明応9年(
1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて
多治比猿掛城に移り住む。翌
文亀元年(
1501年)には最愛の母が死去し、そして松寿丸10歳の
永正3年(
1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま
多治比猿掛城に住むが、家臣の
井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「
乞食若殿」と貶されていたという。この困窮した生活を支えたのが養母であった
杉大方である。永正8年(
1511年)に元服し、
毛利元就を名乗る。
永正13年(
1516年)、長兄・興元が急死。家督は興元の嫡男・
幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する
[当初は幸松丸の外戚の高橋氏の影響力が強く、実際に毛利本家の実権を握っていたのは高橋久光であったが、久光は備後の三吉氏との戦いで戦死し、その後は元就が後見役として家中を主導した。元就の長女は高橋氏の人質となっていたと伝わる。]。毛利弘元、興元と二代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、
佐東銀山城主・
武田元繁が吉川領の
有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた
初陣であった。