成務天皇 wikipedia|無料辞書
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代
仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代
舒明・35代
皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであって、12,13,14代の称号は後世の造作ということになり、成務天皇の実在性には疑問が出されている。
『記・紀』に載せる成務天皇の旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は
4世紀半ばに当たるか。
◆系譜
・妃:弟財郎女(おとたからのいらつめ。穂積臣の祖・建忍山垂根の女)
・和謌奴気王(わかぬけのみこ)
・妃:吉備郎姫(きびのいらつめ。稚倭根子皇子の女。天皇の姪)
◆皇居
都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の
滋賀県大津市穴太)。 『古事記』に「若帯日子天皇、
近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。成務天皇を架空と見る立場からは、
天智天皇の
近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。
◆ 事績
景行天皇51年8月4日(
121年9月3日)に
立太子、成務天皇元年(
131年)正月に即位。3年(
133年)に
武内宿禰を
大臣とした。5年(
135年)9月、諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに
造長(くにのみやつこ)・
稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、
地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。これらは『
古事記』にも大同小異で、「
建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とあり、『
先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。48年3月1日(
178年4月5日)に甥の足仲彦尊(後の
仲哀天皇)を
皇太子に立て、60年(
190年)6月に崩御、107歳。『古事記』に95歳という。
◆ 御陵
『
延喜式』
諸陵寮によれば、狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけしりのみささぎ)に葬られた。 『書紀』に「狭城盾列陵」、『古事記』に「沙紀の多他那美(たたなみ)」とある。現在、同陵は
奈良県奈良市山陵町の佐紀石塚山古墳(
前方後円墳・全長218m)に比定される。
江戸時代まで度々
盗掘の被害に遭った
古墳の一で、犯人は
流罪・
磔などに処されたという。
◆ 在位年と西暦との対照表