大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮
藤原璋子の第四皇子として生まれる。
藤原宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した(
宇多天皇女御・
藤原胤子、
三条天皇皇后・
藤原?子以来)。11月14日、
親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『
中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。
保延5年(
1139年)12月27日、12歳で
元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は
藤原得子を寵愛して、
永治元年(
1141年)12月7日、
崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳中宮・
藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『
愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、
田楽・
猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、
催馬楽・
朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。
鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、
東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。