秀吉は備中高松城で対峙していたが、
清水宗治の申し出を受諾し、6月4日には備中高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし、その前日に本能寺の変の情報を入手し、
[原平内なる者が秀吉の軍の中に毛利軍と間違え飛び込んできた際、彼が体に隠していた手紙から信長の死の情報を入手した。 歴史群像シリーズ? 織田信長【天下一統】の謎 P 134より]ただちに
毛利軍と素早く和議した。4日に
堀尾吉晴・
蜂須賀正勝を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、後始末の後に5日から6日にかけて撤兵した。6日に沼(
岡山城東方)、7日に
姫路城、11日に尼崎(
尼崎市)といわゆる「中国大返し」といわれる機敏さで
畿内へ急行した。秀吉の懸念材料は、地理的には光秀に近い「摂津衆」の動向であった。たまたま、変を嗅ぎつけたらしい摂津衆の一人・
中川清秀から書状が舞い込み、秀吉は「上様(信長)・殿様(信忠)は危難を切り抜けられ
膳所に下がっている。これに従う
福富平左衛門は比類なき功績を打ち立てた」という返事を清秀に出した(6月5日付)。もちろんデマだったわけであるが、結果的に摂津衆は清秀・
高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方をすることになり、さらに四国征伐のために大坂に集結していた
織田信孝・丹羽長秀らも味方になった。12日に
富田で軍議を開き、秀吉は長秀、次いで信孝を総大将に推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となった(名目上、信孝が総大将となった)。秀吉は山崎あたりを合戦場と想定した作戦部署を決めた。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の噂があった光秀の女婿・
津田信澄を自刃に追い込んでいる。
一方、光秀は変後は京の治安維持に当たった後、
武田元明・
京極高次らを近江に派兵して、数日内に近江は瀬田城(
山岡景隆・
景佐兄弟在城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、
瀬田橋を焼くなど抵抗の構えを見せた末、一時
甲賀方面に避難)、日野城(
蒲生賢秀・
賦秀父子在城)などを残し平定された。その傍ら、組下大名に参戦を呼びかけたが、縁戚であった
細川藤孝・
忠興父子は3日に「喪に服す」と称して剃髪、中立の構えを見せることで、婉曲的にこれを拒んだ。また、
筒井順慶は参戦に応じ配下を山城に派兵していたが、極秘裏に秀吉側に寝返り、9日に
郡山城で籠城支度を始めてしまった。光秀は次男を連れて
洞ヶ峠まで来たが、順慶が来るはずもなかった(この話が拡大して「筒井順慶が洞ヶ峠で日和見を行った」なり、それにちなんで日和見を「
洞ヶ峠(を決め込む)」と言うが、記したとおり順慶は洞ヶ峠には来ていない)。そうこうしている内に10日に秀吉接近の報を受け、急いで
淀城・
勝竜寺城の修築に取り掛かり、また
男山に布陣していた兵力を撤収させた。こうして、予想を越える秀吉軍の進攻に体制を十分確立できぬまま光秀は決戦に望む羽目となる。