天正13年(
1585年)、秀吉が
関白になったのに際し大政所と呼ばれるようになる。翌天正14年(
1586年)、秀吉が
徳川家康に上洛を勧めるがうまくいかなかったため、妹の朝日姫を正室として、大政所を人質として
三河国岡崎に送った。その結果、家康は上洛に応じたため、大政所は約1ヶ月で
大坂に戻ることができた。この間、
本多重次が大政所の居所の周囲に柴を積み上げ、事ある際には火をつける準備をしていた。
墓所は大徳寺内天瑞寺跡。寿塔覆堂が横浜に移転。山科本国寺の墓地に合祀(妙雲院弥右衛門、婿三好吉房、孫豊臣秀保と合祀)の供養塔がある。大徳寺本坊に肖像画が残る。ほかに、「玉仲遺文」に大政所の画像の賛があり、もう一軸肖像画があったとみられている。