大日本帝国憲法では文面上は
信教の自由が明記されていた
[『神道』 134頁。]。しかし、政府は「
神道は宗教ではない」(
神社非宗教論)という
公権法解釈に立脚し、憲法の
信教の自由とは矛盾しないという「強弁」をして、これを公式見解としていた。政府による「神社崇拝」の国民への強制の度合いは時代によって異なったが、
1930年代初頭から太平洋戦争にかけての時期には、国家神道は戦争遂行の精神的支柱として重視された。
官国幣社を
内務省神社局が所管し、新たな官国幣社の造営には
公金が投入された。
村社以上の
社格の神社の
例祭には地方官の奉幣が行われ、一種の国教的な制度であったとされる。
『
古事記』『
日本書紀』等の古典を根拠として万世一系の
天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と
国民との間に伝統的な強い紐帯があることを前提に、全国の神社は
神祇官の元に組織化され、諸制度が整備された。当初、全国の神社は全て官有となり、全
神職は
官吏待遇(
神官)となった。だが、制度面として未成熟な部分があり、
神官と呼ばれる官吏としての神職は
伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。
官国幣社の神職には官等を配し、位階、勲等を付与した。その多くは
判任待遇としたが、一部は
奏任官待遇(
高等官)とし、叙位の恩典も与え、退職後の恩給制度も整備した。
信教の自由は近代国家を樹立する上で必要とされたため、1889年発布の
大日本帝国憲法下でも認められていた。
大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが
、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の的となっており、起草者である
伊藤博文・
井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた
[具体的には「安寧秩序ヲ妨ケス」は主として刑法犯に抵触しない事を指し、「臣民タルノ義務ニ背カサル」は20条・21条に明記された兵役と納税の義務は宗教上の理由で拒否することが出来ない、という見解であった。]。昭和に入ってから
美濃部達吉[美濃部達吉や筧克彦は「神社を格別として、神道を国教としたのは不文憲法に基づくものであるとの学説を主張した。」(葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』神社新報社、1987年、p132)]や
神社局 [神社局は「国民カ神社ニ参拝シマスノハ我カ国体ノ本義ニ基ク当然ノ責務」(1939年1月、帝国議会用資料「宗教団体法案ニ関スル質疑応答資料」)としている。]には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式の憲法解釈として発せられることはなかった。