平安京内裏は
960年(
天徳4年)火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われ、やがて
里内裏が現れてくると天皇はもっぱらそちらに常住するようになり、内裏の意義は低下してくる
[佐々木文昭は一条天皇以後、火災後に再建された内裏には当代の天皇は入らずに里内裏に滞在し続け、次代の天皇に新造のまま引き渡して(再建されていない場合には即位後最初の事業として内裏を造営して)代始における徳政の象徴とする慣例が生まれたとする説を提示している(佐々木文昭『中世公武新制の研究』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02877-6 P60-66)。]。平安宮の内裏は鎌倉時代に焼亡したのち再建されることはなく、南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった
土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となり、近世になってその内域に紫宸殿、清涼殿などが復元された。現在の
京都御所がこれである。