1813年、サヴィニーはわずか1年で総長を辞任したが、そのころ
ナポレオン1世の敗北を受けてナポレオン時代にドイツに導入された
ナポレオン法典を排除すべきかどうか、仮に排除するとしてもその後に旧来の法を復旧させるのか新たな法制を導入するのかが論争となっていた。サヴィニーもこの論争に加担して
1814年には、『立法と法学に対するわれわれの時代の使命(資格)について(Vom Beruf unserer Zeit|Vom Beruf unserer Zeit f?r Gesetzgebung und Rechtswissenschaft)』を著して、ドイツの法学は民法典を制定するまで成熟していない、法学を成熟させることこそ先決であると説き、
アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボーとの論争に勝利した。なお、サヴィニーが統一民法典編纂に反対したのは、単にティボーの啓蒙主義的な理性法に対する歴史法からの反対というだけでなく、政治的意図があったといわれる。そもそも、ティボーの主張(『ドイツ一般民法典の必要性について(?ber die Notwendigkeit eines allgemeinen b?rgerlichen Rechts f?r Deutschland)』(1814年))にも政治的意図があった。ティボーは、統一民法典編纂により、ナポレオン戦争後のドイツの保守反動の動き(領邦体制温存)に対抗し、ドイツ統一を願う国民主義的・自由主義的運動を擁護しようとしたのである。これに対し、サヴィニーは、領邦体制を含め神聖ローマ帝国の国制を基本的に望ましいものと考えており、また、神聖ローマ帝国において通用し、自らの研究対象でもあるローマ法の延命・救済を図りたいと考えていた。また、当時の政治状況的にも
プロイセン王国・
オーストリア帝国・
バイエルン王国などが割拠している状況では、仮にティボーの主張が認められても実際の法典成立に至るまでの合意を獲得するのは不可能であるとも見ていた。したがって、サヴィニーにとっては、その時点におけるドイツの法の分裂状態は必ずしも克服すべき対象では無く、そこから統一民法典編纂に反対したのである。